日本における小説発行部数1000万部 (歴代1位)の大ベストセラー小説、村上春樹の「ノルウェイの森」が「シクロ」でヴェネツィア国際映画祭でグランプリを受賞したベトナム出身のトラン・アン・ユン監督、主演、松山ケンイチ・菊池凛子で今年映画化され12月11日にいよいよ公開される。
近年、ノーベル文学賞日本人最有力候補として名前が挙がる村上春樹ですが、彼が世界に大きな注目を集めるきっかけとなったのは2005年、「海辺のカフカ」がニューヨークタイムズ紙で「年間ベスト10」に選ばれ、2006年にフランツ・カフカ賞を受賞してからだ。審査委員長の北原も「海辺のカフカ」の世界的評価に伴い、文学作家村上春樹に注目して読み始めた。彼の小説の特徴はストーリーがとても難解で舞台がとてもワンダーランドな所だ。表現の仕方がとても抽象的で物事の例え方がかなり”飛んでいる”。好き嫌いがハッキリ別れるんじゃないかと思うが、北原はかなり好きだ。上記にも書いた通り、村上春樹の代表作「ノルウェイの森」が映画化される。この発行部数を見て分かるように、日本で一番読まれている小説である。今まで書かれた作品の中でもかなり読みやすく、分かりやすい世界観になっている。俺はこの読みやすさと世界観が普通過ぎたという理由で途中で読むのを辞めてしまっていた。
その時は興味なくても、いつか興味を持てるきっかけが訪れるだろう。
今回の映画化がまさにその”きっかけ”だ。日本映画の注目作は実際見てみると残念な気持ちになる映画が多いから公開前はあまり期待はしていないのだけれど、今回は別。今、北原”喪失感”ブームなんで。
もちろん、それだけではない。タイトルの「ノルウェイの森」とはビートルズが1965年に発表したオリジナルアルバム「ラバーソウル」に収録されている楽曲からつけたタイトルである。予告編で流れていた曲だ。実はこの曲、原盤なんです!これ、とってもすごい事なんです。凄い事なんです。(凄いから二回言ってみた)世界中の映画関係者がビートルズの曲を映画で流したがっているのですが、ビートルズの事務所はとても著作権うるさいんでよっぽど気に入ってもらえてないと許可が下りない事で有名です。だから多くの映画はカバーで我慢するしかなかった。映画「ノルウェイの森」のスタッフは何年も前からこの交渉を始めていました。結論、村上春樹の原作が凄く好きという理由で許可がもらえたわけです。これも彼がどれだけ世界から注目され、信頼されているかという事を伺い知る事ができる。だから、何度も言いますがこれは凄い事なんです。それだけでも見に行く価値を感じてしまう。
良い曲だわ♪
映画化を知って誰が監督をするかが一番心配だった。とりあえず、堤監督(20世紀少年・トリック等・・・)にだけは当たらないで下さいとお願いしたら、叶いました。最近、キムタクが出たフランス映画「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」の国際派監督のトラン・アン・ユがメガホンを取ることになった。正直、興行的な作品を撮る監督じゃないけれど、この物語に関して言えばあっているような気もするしもしろ興行的になってほしくないからこれでいいのだ。
村上春樹の短編小説に「パン屋再襲撃」という作品がある。この作品もキルステン・ダンスト主演で映画化される。(スパイダーマンのかわいくないヒロインで有名な彼女)詳しくはこちらで↓
http://www.cinemacafe.net/news/cgi/release/2010/09/9152/
世界を巻き込んで村上春樹ブームが今まさに訪れています。去年、エルサレム賞を受賞した村上春樹。イスラエルは内戦中でもあるし、村上春樹を批判する人が多くいて危険だから授賞式に参加してスピーチするのは辞めたほうが良いと周囲に言われる中、彼は現地へ行きスピーチをした。この勇気ある行動は日本だけでなく、世界から賞賛されました。
なぜ、リスクを負ってまでイスラエルへ行ったのか?
俺の解釈を簡単にまとめると、自分の目で見なければ何も分からないという事。
映画は12月11日からです。世界中に読まれている名作の映画化なので、何を言われるかわかりません。しかし、周りがなんて批判していようが、まずは自分の目で見てから発言して欲しいと心から思います。今回の日記で少しでも映画に興味を持ってくれたり、村上春樹を好きになるきっかけを作る事ができたのなら嬉しく思う北原であります。
<村上春樹 エルサレム賞スピーチ全文>
こんばんは。わたしは今日、小説家として、つまり嘘を紡ぐプロという立場でエルサレムに来ました。
もちろん、小説家だけが嘘をつくわけではありません。よく知られているように政治家も嘘をつきます。車のセールスマン、肉屋、大工のように、外交官や軍幹部らもそれぞれがそれぞれの嘘をつきます。しかし、小説家の嘘は他の人たちの嘘とは違います。小説家が嘘を言っても非道徳的と批判されることはありません。それどころか、その嘘が大きければ大きいほど、うまい嘘であればいっそう、一般市民や批評家からの称賛が大きくなります。なぜ、そうなのでしょうか?
それに対する私の答えはこうです。すなわち、上手な嘘をつく、いってみれば、作り話を現実にすることによって、小説家は真実を暴き、新たな光でそれを照らすことができるのです。多くの場合、真実の本来の姿を把握し、正確に表現することは事実上不可能です。だからこそ、私たちは真実を隠れた場所からおびき出し、架空の場所へと運び、小説の形に置き換えるのです。しかしながら、これを成功させるには、私たちの中のどこに真実が存在するのかを明確にしなければなりません。このことは、よい嘘をでっち上げるのに必要な資質なのです。
そうは言いながらも、今日は嘘をつくつもりはありません。できる限り正直になります。嘘をつかない日は年にほんのわずかしかないのですが、今日がちょうどその日に当たったようです。
真実をお話しします。日本で、かなりの数の人たちから、エルサレム賞授賞式に出席しないように、と言われました。出席すれば、私の本の不買運動(ボイコット)を起こすと警告する人さえいました。これはもちろん、ガザ地区での激しい戦闘のためでした。国連の報告では、封鎖されたガザ市で1000人以上が命を落とし、彼らの大部分は非武装の市民、つまり子どもやお年寄りであったとのことです。
受賞の知らせを受けた後、私は何度も自問自答しました。このような時期にイスラエルへ来て、文学賞を受けることが果たして正しい行為なのか、授賞式に出席することが戦闘している一方だけを支持しているという印象を与えないか、圧倒的な軍事力の行使を行った国家の政策を是認することにならないか、と。もちろん、私の本がボイコットされるのは見たくはありません。
しかしながら、慎重に考慮した結果、最終的に出席の判断をしました。この判断の理由の一つは、実に多くの人が行かないようにと私にアドバイスをしたことです。おそらく、他の多くの小説家と同じように、私は人に言われたことと正反対のことをする傾向があるのです。「行ってはいけない」「そんなことはやめなさい」と言われると、特に「警告」を受けると、そこに行きたくなるし、やってみたくなるのです。これは小説家としての私の「気質」かもしれません。小説家は特別な集団なのです。私たちは自分自身の目で見たことや、自分の手で触れたことしかすんなりとは信じないのです。
というわけで、私はここにやって参りました。遠く離れているより、ここに来ることを選びました。自分自身を見つめないことより、見つめることを選びました。皆さんに何も話さないより、話すことを選んだのです。
ここで、非常に個人的なメッセージをお話しすることをお許しください。それは小説を書いているときにいつも心に留めていることなのです。紙に書いて壁に貼ろうとまで思ったことはないのですが、私の心の壁に刻まれているものなのです。それはこういうことです。
「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。
そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?
この暗喩が何を意味するのでしょうか?いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。
しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。
私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。私は、生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣に作り話を紡ぎ上げていくのです。
私の父は昨年、90歳で亡くなりました。父は元教師で、時折、僧侶をしていました。京都の大学院生だったとき、徴兵され、中国の戦場に送られました。戦後に生まれた私は、父が朝食前に毎日、長く深いお経を上げているのを見るのが日常でした。ある時、私は父になぜそういったことをするのかを尋ねました。父の答えは、戦場に散った人たちのために祈っているとのことでした。父は、敵であろうが味方であろうが区別なく、「すべて」の戦死者のために祈っているとのことでした。父が仏壇の前で正座している後ろ姿を見たとき、父の周りに死の影を感じたような気がしました。
父は亡くなりました。父は私が決して知り得ない記憶も一緒に持っていってしまいました。しかし、父の周辺に潜んでいた死という存在が記憶に残っています。以上のことは父のことでわずかにお話しできることですが、最も重要なことの一つです。
今日、皆さんにお話ししたいことは一つだけです。私たちは、国籍、人種を超越した人間であり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している壊れやすい卵なのです。どこからみても、勝ち目はみえてきません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい存在です。もし、私たちに勝利への希望がみえることがあるとしたら、私たち自身や他者の独自性やかけがえのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることのできる温かみを強く信じることから生じるものでなければならないでしょう。
このことを考えてみてください。私たちは皆、実際の、生きた精神を持っているのです。「システム」はそういったものではありません。「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。「システム」に自己増殖を許してはなりません。「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。
これが、私がお話ししたいすべてです。
「エルサレム賞」、本当にありがとうございました。私の本が世界の多くの国々で読まれていることはとてもうれしいことです。イスラエルの読者の方々にお礼申し上げます。私がここに来たもっとも大きな理由は皆さんの存在です。私たちが何か意義のあることを共有できたらと願っています。今日、ここでお話しする機会を与えてくださったことに感謝します。ありがとうございました。
村上春樹
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